ブログ裏技?
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「バニラファッッジ別館」でトップ画像展開催中。
お時間があれば、遊びに行ってください。
↑ご心配かけました(笑)
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おばさんに呼び止められた。
しかし、台所にただよう匂いでだいたいのことは察知できた。
お義母さんが去年から煮続けている大根料理。
食材を延々とつぎ足しながら煮続けている大根料理。
どうやら、ついにこのなべをこがしてしまったようだ。
おばさんが言う通り、最近のあのなべの中は
見るにしのびない状態だった。
おばさんが、ほっと胸をなでおろすのもうなづける。
しかし、少々ひっかっかることもあった。
あの神経質なお義母さんが
料理がこげるほど、なべから離れたというのが
にわかに信じられない。
(私やおばさんなら、ありえる。)
で、予感は的中した……orz
午後からお義母さんに
病院の薬をもらって来てほしいと頼まれた。
「じゃ、探してみるわね。」と言われて、1時間後…
一緒に探したが、見つからない。
病院に訳を話して、薬だけ処方してもらった。
去年の夏、お義母さんはホチキスと爪切りの見分けがつかず
冷や汗をかいた。
しかし家族の心配をよそに、この冬はしっかりしていた。
いろいろと忘れることはあったが
こんなちぐはぐな会話は、ほとんどなかった。
お義母さんが、大根を煮るのをやめてからおかしい。
…いや、大根を煮続けていたことも
今となってはおかしかったのかな?とも思う。
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だ、だれか!早くクリックを。
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乾燥した季節、毎年お義母さんは
足の裏がしもやけのような赤切れになる。
絆創膏をあっちこっちにはって
靴下を何枚も重ねてはく。
たしかに痛そうだが、毎日言われると
みんな「はいはい」と、スルーするようになる。
初めはダンナのように
あーすれば、こーすれば、とアドバイスするが
人の話には一切耳を貸さないどころか
逆に切れる。
だって、お義母さんの求めているものは
「大丈夫?身体を大事にしてね。無理しちゃだめだよ。」という
生温い言葉なのだ。
しかし、靴下をぬぐ時の
片足でバランスよく立つその姿を見ると
「元気でなにより。」なのだ。
もちろん、お近所の方からも
「お義母さん、お元気そうね。」なのだ。
↑ほ〜ら、blogランキングだって
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休日の午後、ウトウトしていたら
背後に忍び寄る人の気配…
突然、耳を引っ張られて…!
耳そうじしてもいい?
我が家の耳そうじ分布図→過去記事
やはり、この時が来た。
耳そうじをしてもらうのが好きな人は
耳そうじをするのも好きという運命。
しかし、リュウにこの身を預けるには
母親として、まだまだやり足りない部分も多く
このまま全面降伏するわけにはいかないのだ。
何を言っているかわからないが
要するに怖い。勘弁してくれ。まだ心まで悪魔に売っていない。
しかし、耳かきはお互いの信頼関係と思いやりが交差する。
私は、私に対するリュウの思いやりをあえて試しみようと決めた。
じゃ、まずは綿棒で。
いつも無鉄砲なリュウだが
思った以上に私に気を使いながら
とてもやさしく掃除をしてくれた。
よし。
私の子育ては今のところ
間違っていないな、と確信した。
ところが、そんな平和を打ち破る怒声が
足元から聞こえて来た。
まだ心を許し合っていない
父と娘がそこにいた。
メイは耳そうじがとても上手で、安心できます。
ひざまくらは、やや固めだけど…(笑)
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昨日はおばさんの整形外科の付き添い。
冬場は特におばさんはトイレが近い。
病院には1時間くらいいたが
何度かトイレに行く。
その間に、私が薬を
もらったり支払いをしたりする。
…え?私が何かしましたっけ?
すっかり忘れかけていたが
おばさんは覚えていてくれた。
たしか7〜8年前だと思うが…
おばさんは、月に1回くらい
おしっこがしたいのに出ない
ということがあった。
その症状が 現れると
どんどん膀胱が痛くなり
しまいには腰もたたないほどの
痛みに襲われた。
その苦しみは3時間くらいすると
やっと出た尿とともにすっと終わる。
いくつかの病院や泌尿器科を
訪れたが治らなかった。
医者も首をかしげるばかりだった。
ネットで似た症状の病気を見つけた。
ただ、おばさんは月に
1回くらいの発病だったが
その患者さんは、もっと頻繁に
苦しんでいるようだった。
原因も治療も不明の病気だったが
命に別状はない。
治療方法によっては
楽になる人もいる病気だが
完治したという報告はない。
治療にあたっている病院は
どこも遠方だった。
地元の新聞の暮らし欄に
「この医者に聞け」というコーナーがあった。
読者の質問に、その道のスペシャリストが
答えるというものだった。
私はさっそく「間質性膀胱炎」について
投書した。
「私の母は70歳ですが、最近…」と
いった具合に。すると‥
採用されて、新聞に掲載された。
地元の新聞なので、答えて下さったのも
地元のお医者さんだった。
車で1時間くらいで行ける
総合病院の泌尿器科の先生だった。
おばさんは、その記事を読んで
感動していた。
お医者さんの答えが
まるでおばさんを診察しているような
やさしい語り口で、最後には
「ぜひ、それを前提に検査を
受けてください。」とあった。
結局、おばさんは病院には行っていない。
その記事を読んだだけで治ったと言うのだ。
まさに病は気から。
どの病気もそれで治るといいんですが。
そんな思い出のヒトコマでした。
間質性膀胱炎を現在患っている方もいらっしゃると思いますが
今回の記事は、我が家で起こった
本当に不思議な出来事です。
治療においては、なんの役にもたちません。すみません。
心当たりのある方は病名を告げて
診察を受けることをおすすめします。
ただの膀胱炎で済まされてしまうケースが多いようですから。
応援も気から…?!
↓ダメダメ!クリックしてくれないと伝わらないYo!
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おばさん暴走中。
耳の遠いおばさんは最近
勝手にしゃべって、勝手に解釈して、勝手に去って行く。
ポリデントぐらいなら
私が黙って買ってこればすむ話なんだが…
なんたるポジティブシンキング!
以前、私がひとりで補聴器を見に行ってきた時
お店の方が
「最近の補聴器は、昔よりずいぶんよくなってきたんですけどね。
ご本人につける気がないと、宝の持ち腐れですから…」
と、言われた。さらに、
「補聴器をつけると、ご自身のしゃべり声が
まず、やさしくなるんですよ。」
とも言われた。なるほど。ああ補聴器萌え。
以前の補聴器ネタの時も
みなさんからたくさんのアドバイスをいただいたのに
全然、進歩してなくてすみません。
↓応援クリックで、元気100倍!(私が…)
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昨日は、中学校の入学説明会があった。
ケンもリュウもいよいよ今年から中学生だ。
説明会は親子で席が決まっていた。
私はリュウのとなりに座り
ダンナはケンのとなりに座った(笑)
こうした平日の学校行事は
母親の参加がほとんどをしめる。
ざっと見渡しても父親の付き添いは、ほとんどいない。
すれ違う知り合いのママに
「家族総出で、いいわね。」と何度か冷やかされた。
入学説明会はメイの時に経験済みで
わざわざ2人も出席する必要はないんだが
ケンにしろリュウにしろ
隣の親席が空いているは寂しいという理由だけで
ダンナに会社を休んでもらった。
(会社のみなさん、すみません)
さて、親が学校の教育方針を校長や教務主任から
聞いている間に
子どもたちは校内見学会をしてきた。
で、その感想は…
小学校は1学年3クラスだが
中学校になると6〜7クラスに倍増し
校舎の広さも小学校の比ではない。
生徒が皆、先生より大きかったとびっくりしていた。
3年生の男子になると、おっさんぐらいに見えるらしい(笑)
で、2人が口を揃えて言ったことは…
これは、やはり心強かったと思う。
メイの時は親子とも初めてづくしで緊張していたが
ケンとリュウはとても楽しんで
中学校見学ができたようだ。
初めてと言えば、この人の感想は…
いつの世も、校長先生の話は長い。
常連の私など、つい途中でウトウトが入る。
それゆえ、ダンナの感想は実に新鮮だった(笑)
みなさんの応援クリックで
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本日の記事は、昨日の続きです。
バンドのメンバーの中で、
1番才能があると思われていたヤツが
大学受験のために脱退した。
バンドは一気にしらけた。
しょせん趣味の世界。
これで食っていけるとは、誰も思っていなかった。
バンドは解散し、現実の世界に引き戻された。
そしてぼくも遅らばせながら
受験勉強を始めた。
予備校には通わず、おふくろの知人から紹介してもらった
「アニキ」に、勉強をみてもらった。
ぼくは「アニキ」を受け入れることで
長い反抗期とおふくろとの戦いを終焉した。
「アニキ」は、ぼくが大学合格するまで
ずっとサポートしてくれた。
相変わらず、たびたび起こる
おふくろとのけんかの仲裁もしてくれた(笑)
これは、本当に偶然の話だが
「アニキ」はその後、大学教授になった。
そして、そこでバニラファッジは彼の教え子となり
「アニキ」の講義を受けていた。
実はデキの悪い彼女も、無事卒業・就職するまで
どっぷりと世話になっていた(笑)
話を戻して…
そしてその後、ぼくも無事大学を卒業し
いち社会人として忙しい毎日を送っていた。
そんなある日…
何も迷いはなかった。
父親は、その後再婚(3回目!)していたため
おふくろが参列しないことはわかっていた。
本当に、そっと行ってそっと帰ってくるつもりだったが
実際にはそうはいかなかった。
向こうの親族が次から次へとあいさつに来た。
中には「君がクリームくんか!」と、泣き出す人もいた。
誰が誰だか全然わからなかったが
唯一、ひと目でわかった人たちがいた。
ぼくの2人の姉だ。
非常に不謹慎な話だが
2人とも、とてもきれいな女性だった。
凛として棺に付き添っていた姿が、とても印象的だった。
ぼくは、おじぎをして前を通過しただけだった。
姉たちは姉たちで、複雑な人生を歩んできたのだろう。
何も会話はなかったが、とても濃密な時間が流れた。
さて、その後ぼくとファッジは縁あって出会い
もちろん、それを1番驚いたのは「アニキ」だった。
ダンナの話は、これで終わります。
3人の子の父となったダンナは
今日もオレ流の子育てをがんばってます。
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この時代 ならではのムーブメントに
ぼくも染まっていった。
中学時代からの親友に
箱根アフロディーテに誘われた。
この頃のぼくは、ラジオの周波数を一生懸命合わせながら
ザ・フーやドアーズ、バニラファッジやクリームを聴くのが
唯一の楽しみだった。
…と言うより、それが全てだった。
箱根アフロディーテへは、ヒッチハイクで行った。
霧の中で聴いたピンクフロイドに
心のそこから感動した。
その後は、どんどん音楽にのめり込んでいき
バンドも結成した。
地元で有名ミュージシャンがコンサートをすると
その前座をつとめるようになった。
母親は何度も学校から呼び出しをくらっていた。
なんとか高校は卒業したものの
もう2人がまともに会話をすることもなくなっていった。
しかし何かの本を探していた時、
洋裁の本や公務員読本に混じって母親の本棚から
がでてきた。しかし…
これが勝手にした唯一の母親との会話だった。
さてその頃、ある田舎の片隅で
と、くったくない小学4年生の女の子がいた。
後にこの少女が、クリーム少年と結婚することになろうとは
ゆめゆめ思いもしない。
(もう少し、つづく)
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本日のお話は昨日の続きです。
おふくろは、市役所に勤めていた。
毎朝ぼくを見送ってくれるのは、おばあちゃんだった。
帰ってくると、家はいつも留守だった。
どうしても寂しい時は、畑にいるおばあちゃんの所まで行った。
子どものために有給休暇を取りにくい時代だったので
参観日も運動会も学芸会も
来てくれるのは、いつもおばあちゃんだった。
それでも、おふくろの言いつけを守り
学校での成績はよかった。
6年生では生徒会長もつとめた。
ほしいおもちゃ(めんこなど)やお菓子は
いつもおばさんが買ってくれた。
父親がいない不憫さは、やはり何も感じていなかった。
ただ、おふくろと自分の名字が違うのは面倒くさかった。
おふくろは離婚後、旧姓の「抹茶」に戻したが
ぼくの名字は父親の「バニラ」の姓のままだった。
母方と一緒に住んでいたが、戸籍は父方だった。
おそらくおふくろは、幼児期を過ぎたら
ぼくを父に返すつもりだったかもしれない。
父方は、地元ではそこそこの資産家でぼくはそこの長男になる。
幼いうちでは、どちらにつきたいか判断できないだろうと
成長を待って決めさせるつもりでいたらしい。
しかし、ここがまた複雑なことに
ぼくの父親は、おふくろと再婚だった。
実はぼくには腹違いの3人の姉がいるらしい。
前妻はその3姉妹の末っ子だけをつれた離婚したらしく
おふくろは、結婚と同時に2児の母親になっていた。
結局、その結婚生活も破綻し父親の元には前妻の2人の娘だけが残った。
その後、ぼくは父親のいるいないに関わらず
思春期を迎え、反抗期に入った。
小学校まで優秀だった成績もどんどん落ちていった。
何度も言うが、ぼくは父親を必要とはしなかった。
しかし、おふくろは必要と感じたのだろう。
父親は、となりの市で高校の英語の教師をしていた。
公立の進学校だった。
いけない高校でもなかった。
でも、そんなの関係ねぇ!だった。
結局、ぼくは地元の高校にすすみ
母親とはどんどんすれ違って行った。
相変わらず母親は不在で
おばあちゃんの作ったご飯を食べて
おばさんからおこづかいをもらって過ごしていた。
厳しい母親には、反感を持っていたが
おばあちゃんやおばさんとはうまくやっていた(…と、思う。)
そんなある日、部活の地区大会の試合会場で
去年の担任に会った。
その時の自分の心理状態は、はっきり覚えていないが
おそらく高木先生を驚かせるぐらいの
軽い気持ちで言ったと思う。
「K高校で英語を教えている
バニラ先生は
ぼくの父親なんですよ。」
後にも先にも、父親の存在を認めたのは
この時が初めてだったと思う。
口にした後、急激に汗がでた。
しかし、高木先生の反応は自分のイメージと違っていた。
「あれ?バニラ先生には
2人の娘さんがいるだけと
聞いていたけど…」
はずかしいやら、情けないやら、みっともないやらで
その後のことは、あまり覚えていない。
やはり、自分には父親はいなかった。
そう確認しただけだった。
涙なんかでなかった。
自分が父親に1番近づいて1番遠ざかった瞬間だった。
(つづく)
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今日のお話は昨日の続きです。
なんと自ら、己の存在を否定!
この発言からもわかるように
お義母さんの子育ては成功した(?)といえる。
とにかく厳しかったそうだ。
身の回りのことから箸の上げ下げまで、
とにかく、こと細かくしつけられた。
今でこそカラーランドセルも当たり前だが
当時、茶色のランドセルは奇異だった。
高級皮革の特注ランドセルは
みんなのようなツヤもなくペチャンコだった。
特に勉強は厳しかった。
どんなにがんばっても、ほめられた記憶がない。
叱られる時のセリフはきまって、これだった。
「父親がいなくて、あんたは幸せだ。」と
言われているようで、幼いながらに
「なんか違う」と思っていた。
本当に言われた意味がわからなくて、おふくろに聞いた。
おふくろは血相を変えて
ぼくの手を引いて友だちの家にどなりこんだ。
そのおふくろの剣幕で、事の重大さを知った。
自分の境遇は相当ほかとは違うらしい。
(つづく)
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